明治生命保険事件(労働者の損害賠償責任・留学費用)

明治生命保険事件(東京地裁平成16年1月26日判決)
「「留学終了後5年以内に自己都合退職した場合、留学費用(人件費相当分を除く)を全額返還する」旨の誓約書に基づいて使用者がなした留学費用返還請求が認められた。」


[事実の概要]
X会社は、生命保険業等を営む相互会社であり、Yは、平成7年にX会社に入社した者であるが、Yは、X会社の留学制度に応募して平成11年7月から平成13年7月までアメリカ合衆国に留学し、MBAを取得した。Yは、留学に際し、X会社に対して、留学終了後5年以内に自己都合により退職する場合には、留学費用(ただし、人件費相当分を除く)を全額返還する旨の誓約書を提出していたところ、Yは、平成14年8月に自己都合によりX会社を退職したため、X会社は、Yに対し、留学費用の返還を請求した。


[判決の要旨]
Yは、「留学終了後、5年以内に、万一自己都合により退職する場合は、留学費用(ただし、人件費相当分を除く)を全額返還いたします。」と記載された本券誓約書を作成してXに提出したことが認められれうところ、前記文言を社会通年に従って判断すると、YはXに対し留学費用について返還を約束したものと認められるから、留学費用について金銭消費貸借の合意がされたものと認めるのが相当である。〈中略〉これら駐在員に支給される金銭のうち、住宅費補助、自動車保険料補助、語学研修費補助、住居決定までの宿泊費及び国内残留物に関わる経費は、業務遂行の費用ではない支出、即ち労働者が本来負担すべき支出について、使用者が支給すべき金員であるから、生活補助給的な賃金といえること、その他の渡航準備費及び渡航雑費等についても、業務遂行の実費弁償であるか生活補助給的な賃金であるかの区別は必ずしも明確ではないことに照らすと、返還約束の対象となる「留学費用(ただし、人件費相当分を除く)」とは、賃金(人件費)に当たらないことが明確とはいえない駐在員規程ないし駐在員運用事項を準用して支出された金員(準用に際し取扱内規により金額が増減されたものを含む)以外の留学に必要な費用をいうと理解するのが合理的である。具体的には、別紙2「留学費用明細書」のうち、語学研修費用、出国・帰国時諸費用、引越費用及び自動車保険料に分類された金員は駐在員規程ないし駐在員運用事項を準用して支出されたものと認められるから、それ以外の、大学授業料及び大学出願料をいうと理解するのが合理的である。以上から、本件誓約書は、大学授業料及び大学出願料を貸付の対象とするものであり、これらの金員について、XY間で弁済期を定めないこととしてXがYに貸付け、留学課程修了後5年間Yが就労した場合には返還義務を免除する旨の消費貸借合意が成立したものと認められる。会社が負担した海外留学費用を一定期間内に労働者が退社することで返還を求める旨の合意が労働基準法16条ないし14条違反となるか否かは、それが損害賠償額の予定または違約金とみなされ、退職の自由を不当に制限するものか否かによる。そして、業務遂行に必要な費用は、未来的に使用者が負担すべきものであって、一定期間内に労働者が退職した場合にこれを労働者に負担させる旨の合意は、それがそれが消費貸借合意であったとしても、実質的に違約金ないし損害賠償の予定と認められるから、会社が費用を負担した海外留学が業務性を有し使用者がその費用を負担すべき場合には、留学費用についての消費貸借合意は、労働基準法16条ないし14条に違反するものとして無効になるというべきである。本件についてみるに、本件留学制度に応募するか否かは、労働者の自由意志に委ねられており、上司の推薦によるものでも業務命令によるものでもなく、大学に合格し留学が決まれば業務命令として留学を命じられるが、選抜された段階で本人が辞退すれば本人の意志に反して派遣されることはないこと、派遣先、留学先は、一定範囲の大学に制限されるが、その中から労働者が自由に選択でき、Yも自由に選択したこと、研究テーマ、研修テーマ、留学先での科目選択は、労働者の自由であり、Yも自由に選択したこと、留学中、毎月研修予定・研修状況等について簡単な報告書を提出することが義務付けられているが、それ以外にXの業務に直接関連のある課題や報告を課せられることはなく、長期休暇の利用にも制約がなかったことが認められる。そして、MBA課程の履修内容は、Xの業務に関連性があり、XにおいてYが留学前後に担当した職務に直接具体的に役立つものが殆どであるが、Xの業務に直接には役立つとはいえない経済学や基礎数学等の基礎的、概念的学科も含まれる上、国際標準による会計学、財務分析等について、豊富な分量の文献を履修者に読ませて講義を行うとともに多様なケーススタディによる教育を行うもので、Xの業務には直接的には相当過剰な程度に汎用的な経営能力の開発を目指すものである。また、MBA資格そのものは、YのXにおける担当職務に必要なものではない。他方、Yにとっては有用な経験、資格であり、X以外でも通用する経験利益を得られる。そうすると、Yの留学は業務性を有するとはいえないから、本来的に使用者がその費用を負担すべきものとはいえず、Yの留学費用を目的とした消費貸借合意は、実質的に違約金ないし損害賠償の予定であるということはできず、労働基準法16条ないし14条に反するとはいえない。